概要

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真宗大谷派 雙林寺

 
 中大兄皇子と共に大化の改新を行った中臣鎌足は後に、藤原鎌足を名のり、その後藤原一族全盛をきわめた平安時代に、藤原一族の国司として、当家は信濃に派遣されました。裏千家書庫にある藤原家系図に、当時の当家の記載が見られます。諏訪で神官に任命され、家紋「立ち梶の葉」は、今でも諏訪神社の紋になっています。神官であったため神原(カミノハラ、カミハラ)とも名乗っており、その後、上原(ウエハラ)を名乗る様になりました。
 荘園は戦国時代とともに崩壊し、信濃は武田領となり、当家も武田家臣団に組み込まれました。前後11年に渡った川中島の合戦で、勝敗もなく、恩償もなく、多くの家臣を失い、当家は疲弊し、松本に下り出家して僧となり、復興を期しました。しかしその願い能わず、武田家は長篠の戦いで廃絶した為、当家の家臣と共に当時開拓地だった越後国に新天地を求め、千曲川を下り越後国弥彦の庄、太田に雙林寺を建立しました。その後、新田開発の拠点と信仰の場に成る可く現在地下沼に移転しましたが、太田の古老が「寺屋敷跡」と呼んでいたという当初の所在地は現在保育所になっていると聞きます。当山の開基は夜照坊釈一入ですが、川中島で家臣と共に戦い僧となった、十六代前の上原七郎左衛門尉藤原正説その人です。「家臣 金子、新田、長谷川の三氏召し連れ……」と過去帳に記載されている三氏の子孫は各氏の地に広大な新田開発を成し遂げ、それぞれ「立ち梶の葉」の付いた諏訪神社を祀り、また当山の檀家として現在もこの地に絶えることなく続いています。
 本堂向拝にあったという一対の獅子は、解体した本堂を吉田から現在の地に移築する為、川舟で運ぶ時、暴風雨となり、舟が転覆しそうになったところ、一つが大きな獅子となり天に昇り嵐を静めたと伝えられております。今は残った片方のみが、本堂裏に安置されています。
 今も当山のくさまき造りの本堂は五百年の風雪を越えても、その姿のまま信仰の道場として現存しています。

茶道 石州流野村本派
華道 遠州古流雙林寺派

    藤原流投入盛花
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雙林寺附設 上原医院

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